NOW — 数ヶ月〜1年先 · 兆しの初動アート×音楽

音にならない暴力が残すもの

銃撃を語るオペラと現代美術、恐怖を伝える距離の違い

学校銃撃を扱うオペラを、現代美術の作家と批評家がともに見る。Artforumに掲載された観劇記が照らすのは、惨事を説明する舞台と、暴力を見せずに気配を残す作品の隔たりだ。2026年6月の時点で見えていたのは、音楽と美術の優劣ではなく、恐怖を誰の距離から表すのかという問いである。

クリーム色の背景に、赤い舞台の枠と、閉じた扉に立てかけられた黒い棒状の形を並べた抽象イラスト。

観劇のあと、鳴らなかった音へ

学校銃撃を描くオペラを見終えた批評家が、思い返したのは叫び声のない映像作品だった。2026年6月1日公開のArtforumで、カット・ヘリマンは、バニー・ロジャーズ、ダイアモンド・スティンギリーとともにニューヨークのメトロポリタン歌劇場を訪れた体験を記している。観劇後の会話から、音楽と現代美術における暴力の表し方の違いが浮かび上がる。

鑑賞したのは、カイヤ・サーリアホカイヤ・サーリアホ Kaija SaariahoSpotify で探すApple Musicが2018年に完成させた《Innocence》。フィンランドの国際学校で起きた銃撃と、その10年後に開かれる加害者の兄弟の結婚式が交錯する。上演は約2時間、休憩なし。ヘリマンの記述では、ほぼすべての出演者が同時にマイクを使い、異なる時点の出来事や記憶が重ねられていた。

ここにある兆しは、新しい上演技術の登場ではない。惨事を大きく語る作品に対し、説明を控えた作品を物差しとして持ち込む批評の視線だ。音楽作品を美術の側から読むことで、何を鳴らすかだけでなく、何を鳴らさずに残すかが問われている。

約2時間の舞台と、2016年の食堂

観劇のきっかけは、ロジャーズが2016年に制作した短編アニメーションとの再会だった。ヘリマンは、ロサンゼルスに設けられたユリア・シュトシェック財団の期間限定シアターで、この作品を再び見たという。《Clone High》の少女が、無人のコロンバイン高校の食堂で赤ワインを飲み、ピアノを弾く映像だ。そこで響くのは、惨事の再現音ではない。

ヘリマンが同じ時期の記憶として挙げるのが、スティンギリーの展覧会「Entryways」である。人工毛髪を編み込んだ鎖が天井から下がり、行き先のない扉には野球のバットが立てかけられていた。こうしたインスタレーションインスタレーションInstallation art物や映像、音などを空間に配置し、その場での鑑賞体験を組み立てる美術表現。個々の物だけでなく、配置や観客との距離も作品の意味に関わる。用語集で詳しくでは、物の配置と見る人の想像が結びつく。バットは振られない。起こり得る暴力を作動させるのは、鑑賞者の側だというのが筆者の読みである。

一方、オペラの回転する大きな箱型の舞台装置には、ヘリマンも魅力を認めている。窓があり、回転によって蛍光灯に照らされた部屋が現れる。ただし、歌われる言葉を担うリブレットリブレットLibrettoオペラなどで歌われる台詞や物語の進行を記した台本。音楽そのものとは区別されるが、言葉の選択や配置が舞台の時間と感情の伝わり方を形づくる。用語集で詳しくは過剰だと評した。スコアスコアScore映画やゲームの場面、物語、空間のために作曲される音楽。ここでは楽譜ではなく劇伴を指し、既存曲の採用や主題歌とは役割が異なる。作品の体験を支える音楽を捉える言葉だ。用語集で詳しくの分析には踏み込まず、告白や説明の多さを問題にしている点で、これは作品全体を網羅する音楽評ではなく、表象の距離をめぐる批評である。

説明の量より、見る人の位置

ヘリマンの不満は、演出の好みにとどまらない。米国で繰り返される暴力を欧州から映画的な距離で眺め、多言語の混在へと広げることで、米国の暴力における白人性が見えにくくなる、と論じている。これは筆者による政治的な読みであり、多言語を使うこと自体の是非を決めるものではない。問われているのは、誰の経験として惨事を差し出すかだ。

対照的に、ロジャーズとスティンギリーの作品には、傷つきやすさを示し、見る側にもそれを開く力があるとヘリマンは考える。食堂のピアノ、少しずつ空になる瓶、扉のそばのバット。日常の物が日常の姿を保つことで、恐怖は遠い出来事として閉じられない。静けさは装飾ではなく、作品の論点になる。

今後数年という幅で見るなら、この比較は、音楽と美術が交わる作品の批評にも広がり得る。音量や舞台の規模だけでなく、観客に何を説明し、何を委ねるかという見方だ。ただし、この記事が示すのは批評家と作家たちの限られた観劇経験であり、制作現場全体が静かな表現へ向かっているとまでは言えない。

日本から見る、共有されない前提

日本から読む際に留意したいのは、ヘリマンが最後に「少なくとも米国では」と議論の場所を限定していることだ。学校銃撃の記憶が、無人の食堂や置かれたバットをどう見せるのか。その前提を共有しない観客には、同じ省略が同じ強さで届くとは限らない。これは日本の観客の反応を調べた記事ではなく、受け取り方の違いは断定できない。

それでも読み取れるのは、音楽と現代美術の接点が、共同制作や技術の融合だけにあるわけではないということだ。異なる形式の作品を隣に置くことで、片方では当然に思えた説明や演出が見直される。2026年6月のこの観劇記には、恐怖を大きく再現することと、身近な場所に残すことの間を測る、小さな批評の動きがあった。

この記事は、2026年10月に、当時(2026年6月1日(月))の出典をもとに書いた振り返りです。数字や状況はその後変わっている可能性があります。

EVIDENCE出典

  1. 論評Artforum2026-06-01

    Kat Herriman goes to the opera with Bunny Rogers and Diamond Stingilyartforum.com ↗

    “There are no screams in Bunny’s cafeteria—just the sound of tinkling keys, a bottle slowly being drained.”

    バニーの食堂に叫び声はない。ただ鍵盤の軽やかな音が響き、瓶の中身がゆっくりと減っていく。

    確認日 2026-10-18

Artistsこの記事に登場するアーティスト

PUBLISHED 2026.06.01 · 著者 Andown · 引用元 Artforum